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名古屋高等裁判所 昭和39年(う)166号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を拘留一〇日に処する。

原審における未決勾留日数中一〇日を右本刑に算入する。

原審および当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、被告人作成名義の控訴趣意書、弁護人小栗孝夫、同尾関闘士雄、同伊藤泰方、同伊藤宏行および同大矢和徳の五名共同作成名義の控訴趣意書ならびに弁護人桜井紀作名義の控訴趣意書の各記載のとおりであるから、いずれもここにこれを引用する。これらに対する当裁判所の判断は、左記のとおりである。

控訴趣意は、まず、

「本件においては、被告人は、終始その氏名等を黙秘しており、検察官は、被告人の氏名等を記載しない起訴状を原審に提出して、本件公訴を提起した。そして被告人は、原審において、弁護士桜井紀を弁護人に選任する弁護人選任届(別紙第三表)を提出し、更に弁護士森健、同大矢和徳および同花田啓一の三名を弁護人に選任する弁護人選任届(別紙第六表)を提出した。その各弁護人選任届には、いずれも被告人の氏名は自書してないけれども、被告人を特定し得る事項を記載して被告人の指印が押してあるから、右の各弁護人選任届は有効と解すべきである。しかるに原裁判所は、右の各弁護人選任届が刑訴規則第一八条等に違反する無効のものと解し、弁護士大矢和徳一名を国選弁護人に選任し、同弁護士だけを公判に出頭させて、事件を進行した。その結果、被告人は、学識経験が豊富にして法廷技術に熟達した桜井、森および花田三弁護士の弁護を受けることができなくなり、不利益な立場に立つた。原判決には、右の点において、判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続法令の違反がある」

と主張する。

なお、後記説示の別紙第一一表弁護人選任届および第一二表弁護人選任届が当審に提出され、当裁判所は、種々調査研究をし、合議の結果、後記の理由により、右の各弁護人選任届を適法有効と解して、第一回公判を開廷し、弁護人としては大矢弁護人だけが出頭し、裁判長において同弁護人に対し、控訴趣意書の陳述を催促したところ、検察官は、

「当審に提出されている各弁護人選任届(右の第一一表第一二表)は、被告人の氏名の記載がなく、いずれも刑訴規則第一八条第六〇条に違反し無効である。従来の高等裁判所判例によつても、然りである。故に当審においては、弁護人の選任がなく当公判廷には弁護人が在廷していないとみるべきである。本件は、弁護人の選任のない事件として審理を進行されたい」

と強く主張して、裁判長の右の訴訟指揮に対し異議の申立をした。当裁判所は、合議のうえ、右の異議の申立を理由なしとして棄却する決定を言い渡して、事件を進行した。

それで叙上の各所論に関する本件訴訟手続の経過を精査し、刑訴規則第一八条第六〇条第六二条第一項の解釈に関する法律問題に論及しよう。

本件記録によれば、

一、被告人は、昭和三九年一月二六日午前六時七分頃軽犯罪法第一条第三三号違反事実の嫌疑にて刑訴法第二一二条第二一三条にもとづき司法警察職員によつて逮捕され、終始沈黙して、氏名住所年令等をも黙秘し、同月二八日被疑者欄に別紙第一表のとおり記載した勾留状(写真添付)の発布を受けて同日名古屋拘置所に勾留され、同拘置所において、旧一階三七房に収容され、一八三番という番号を附され、以来一八三番と呼称されて来た。そして検察官は、同月三一日右事実を公訴事実としかつ被告人欄に別紙第二表のとおり記載した起訴状(写真添附)を原審に提出して、本件公訴を提起した。

一、そして弁護士桜井紀を弁護人(私選)に選任する旨を記入しかつ作成名義人欄等に別紙第三表のとおり記載した弁護人選任届が同年二月五日原審に提出されたところ、原裁判所は、名古屋拘置所に電話をかけて、右の弁護人選任届が刑訴規則第一八条第六〇条に違反し不適法である旨を通知した。そこで弁護士桜井紀、同大矢和徳および同森健の三名のうちの一名を国選弁護人に選任されたい旨を記入しかつ作成名義人欄に別紙第四表のとおり記載した弁護人選任に関する上申書が原審に提出され、原裁判所は、これにもとづき、同月一一日被告人の表示として別紙第五表のとおり記載しかつ弁護士大矢和徳を被告人の弁護人(国選)に選任する旨を記載した国選弁護人選任書(写真添附)を作成送達して、同弁護士を国選弁護人に選任した。しかるにその後更に、弁護士森健、同大矢和徳および同花田啓一の三名を弁護人(私選)に選任する旨を記入しかつ作成名義人欄等に別紙第六表のとおり記載した弁護人選任届が同月一五日原審に提出された。

一、原裁判所は、同年二月一五日第一回公判を開廷し、右第三表および第六表の各弁護人選任届を却下したうえ、国選弁護人大矢和徳一名だけを立ち会せて、審理をし、その後第二回公判を開き、同年三月七日の第三回公判において、「被告人を拘留一〇日に処する。未決勾留日数中一〇日を右本刑に算入する」旨の有罪判決を宣告した。その判決書には、写真を添附し、被告人欄に別紙第七表のとおり記載して、被告人を特定している。次で右判決宣告の直後、検察官の請求により、被告人の表示として別紙第八表のとおり記載した勾留取消決定がなされ、被告人は、これにもとづき、同日釈放された。

一、原審国選弁護人大矢和徳は、同年三月七日ただちに右判決に対し当審に控訴の申立をした。そして更に、作成名義人欄等に別紙第九表のとおり記載した控訴申立書が同月一〇日に提出された。次で弁護士大矢和徳を本件の送達受取人に選任する旨を記入しかつ作成名義人欄等に別紙第一〇表のとおり配載した送達受取人届が同月一九日に提出された。

一、そして弁護士大矢和徳および同小栗孝夫の両名を当審における弁護人(私選)に選任する旨を記入しかつ作成名義人欄等に別紙第一一表のとおり記載した弁護人選任届が提出され、更に弁護士桜井紀、同尾関闘士雄、同伊藤泰方、同花田啓一および同伊藤宏行の五名を当審における弁護人(私選)に選任する旨を記入しかつ作成名義人欄等に別紙第一二表のとおり記載した弁護人選任届が提出された。

一、なお、作成名義人欄等に別紙第一三表のとおり記載した控訴趣意書が提出された。そして弁護人小栗孝夫、同尾関闘士雄、同伊藤泰方、同伊藤宏行および大矢和徳の五名共同作成名義の控訴趣意書が提出され、更に弁護人桜井紀作成名義の控訴趣意書が提出された。

一、当裁判所は、後記説示のとおり、右第一〇表の送達受取人届を不適法とみる関係上(その結果、すでに釈放されている被告人に対し公判期日召喚状を適法に送達する方法がなく、したがつて公判に被告人が出頭しない場合には、訴訟を進行することができない)、あらかじめ大矢弁護人に対し、被告人を公判に出頭させるよう配慮方を勧告し、同弁護人は、これを快諾した。

一、原審における証拠調の結果により、被告人が「矢島工業の森下」であると推測し得る状態にあつた。そして当裁判所は、被告人が出頭したうえ公判を開廷し、矢島工業株式会社労務課長矢羽々文太郎を証人として尋問し、かつその証言にもとづき戸籍謄本等を取り寄せて証拠調をした(なお、被告人は、当審においても、その氏名等を終始黙秘し続けた)。

という事実関係が明らかである。

しかるところ、当裁判所は、叙上の当審における証拠調の結果等にもとづき、被告人の氏名、年令および職業はそれぞれ森下東治、昭和一七年一二月一二日生および矢島工業株式会社従業員であり被告人の本籍および住居はそれぞれこの判決冒頭の記載のとおりであると認定する。

そして本件のように、被告人の氏名が明らかでないために、検察官が起訴状に被告人の氏名を記載せず単に被告人を特定するに足りる事項だけを記載して起訴した事件においては、原則として、被告人が他人と共同してまたは単独にて作成提出する弁護人選任届、送達受取人届、控訴申立書、控訴趣意書等における作成名義人としての被告人の表示は、必ずしも被告人の氏名を記載することを要せず、記録と対照して当該事件の被告人であることを特定するに足りる事項を記載し指印をすれば足りると解するのが相当である。いうまでもなく、刑事訴訟は、起訴状の提出によつて開始せられ、各種の訴訟行為によつて進行し発展するが、それらのすべての訴訟行為は、起訴状を前提とし、これを基礎として行なわれる。起訴状は、このようにすべての訴訟行為の基本となる極めて重要な書類であるところ、刑訴第二五六条第二項第一号は、起訴状には被告人の「氏名」その他被告人を特定するに足りる事項を記載しなければならないと明定している。そしてここにいわゆる「その他被告人を特定するに足りる事項」の一種の例示として、刑訴規則第一六四条第一項は、被告人が自然人である場合につき、その年令、職業、住居および本籍を記載しなければならないと規定している。もつとも、同条第二項により、右の年令、職業、住居および本籍の一部または全部が明らかでないときは、その旨を記載すれば足りる。起訴状については、勾引状、勾留状、差押状、捜索状、逮捕状等に適用または準用される刑訴法第六四条第二項と同趣旨の規定は存在しない。したがつて成文上は、起訴状には被告人の「氏名」を記載しなければならないこととなつている。刑訴規則第一六四条第一項が、起訴状には、刑訴法第二五六条(同条は、前記のとおり、被告人の「氏名」と規定している)に規定する事項のほか、次に掲げる事項を記載しなければならないと規定している点からみても、成文上は、起訴状に被告人の「氏名」を記載することを要することが明白である。しかるにもかかわらず、被告人の氏名が明らかでないときは、起訴状に、被告人の表示として、被告人の通称、あだ名または仮名等を記載すれば足り、結局において、刑訴法第六四条第二項と同様に、被告人の人相、体格その他被告人を特定するに足りる事項を記載すれば足りる、という拡張解釈が行なわれ、この解釈は、一般に適法として是認され、実務上も通用している(起訴状に被告人の表示として被告人を特定するに足りる事項だけを記載することは、叙上のように適法と解されているけれども、明らかに成文と異る例外の場合に属するから、検察官は、できるだけ諸種の調査をして、成文の明定するところに従い、被告人の氏名を明確にして起訴するように努力すべきであろう。そして起訴状に被告人を特定するに足りる事項だけを記載して起訴した場合においても、検察官は、引き続き調査をして、被告人の氏名が明確となるように努力し、その氏名が明確となつた場合には、起訴状における被告人の表示を訂正する措置を講ずべきであろう。なお、本件においては、被告人を「年令二十歳位別添写真の男」と表示して起訴したが、この表示は裁判所を大いに困惑させるものである。右の表示は満一九歳何カ月位の少年法所定の少年を起訴したようにもみえ、しかも、本件は家庭裁判所を経由していない事件であるからである)。そして成文の明定するところに従い起訴状に被告人の氏名を記載して起訴した事件においては、左記(イ)(ロ)(ハ)に掲記するような各種の訴訟書類には、すべて被告人の氏名を記載している。けだし、それらの各書類には、「被告人何某に対する何々被告事件」と書いて被告事件を特定する趣旨、書類(例、弁護人選任に関する通知書)の名宛人の趣旨等にて、成文上または実務の必要上、被告人の氏名を記載することが要請されているからである。しかしながら、叙上の拡張解釈にもとづき起訴状に被告人の氏名を記載せず被告人を特定するに足りる事項だけを記載した事件においては、実務上、(イ)裁判所側の作成する弁護人選任に関する通知書、国選弁護人選任書、公判期日被告人召喚状、公判調書、決定書、判決書等のすべての書類、(ロ)検察官の作成提出する公判期日変更申請書、冒頭陳述書、証拠調請求書、証人尋問事項書、控訴申立書等のすべての書類ならびに(ハ)例えば国選弁護人の作成提出する公判期日請書、公判期日変更申請書、証拠調請求書、証人尋問事項書、控訴申立書等のすべての書類に、被告人の氏名が明確とならない限り、被告人の表示として、被告人を特定するに足りる事項だけを記載しており、しかも、それで、一般に適法と解せられ、実務上も十分に通用しているのである。叙上のような成文の拡張解釈、実務の実情等を参しやくして考察すれば、被告人の「氏名」の記載を要求している刑訴規則第一八条第六〇条第六二条第一項等の諸規定は、いずれも刑訴法第二五六条第二項第一号刑訴規則第一六四条第一項が要求しているところに従い起訴状に被告人の「氏名」を記載して起訴した場合を前提とする原則的規定にほかならないことが明白であるといわなければならない。したがつて起訴状に被告人の氏名を記載せず単に被告人を特定するに足りる事項だけを記載して起訴した事件においては、訴訟の経過中に被告人の氏名が明確となつた場合等を除き、右の原則的規定の例外として、被告人が他人と共同してまたは単独にて作成提出する各書類の作成名義人としての被告人の表示は、記録と対照して当該事件の被告人であることを特定するに足りる事項だけを記載し指印をすれば足りると解するのが相当である。起訴状に被告人の表示として通称、あだ名または仮名等だけを記載して起訴した事件においては、もちろん、右各書類の作成名義人として右の名称を記載し指印等をすれば適法と解してよい。

被告人の氏名が明らかでないために、起訴状に被告人の氏名を記載せず単に被告人を特定するに足りる事項だけを記載して起訴する場合としては、被告人がその氏名を熟知しているにもかかわらずこれを黙秘している場合とその他の場合(例、被告人が氏名等の記憶喪失者である場合)とがあることは、多言を要しない。そして後者の場合については、上記説示の結論が正当であることは、疑のないところであろう。しかし、前者の場合については、なお検討する余地があるように思われる。

そもそも被告人は、特別事情のない限り、その氏名を黙秘する権利を有しない。このことは、最高裁判所昭和三二年二月二〇日大法廷判決(集一一巻二号八〇二頁)の明言するところである。そこで、「特別事項のない場合において、被告人が氏名を黙秘し弁護人選任届等に氏名記載をせず単に被告人を特定するに足りる事項だけを記載することは、刑訴規則第一条第二項に違反し、黙秘権の濫用であるから、その弁護人選任届等は、無効のもの、または少くとも不適法として却下すべきものである」という見解が考えられる。しかしながら、まず第一審の弁護人選任届について観察するに、起訴状に被告人を特定するに足りる事項だけを記載して起訴した事件においては、その起訴の時から第一回公判開廷直前の時までの段階において、被告人を特定するに足りる事項だけを記載した弁護人選任届の提出されるのが通常である。しかるところ、いわゆる起訴状一本主義の原則上、右の段階においては、裁判所に何等の資料も存在しない。このように何等の資料も存在しないために、裁判所は、弁護人選任届に被告人を特定するに足りる事項だけしか記載してないことが被告人の氏名を黙秘していることに基因する場合であるか否か、被告人の氏名の黙秘が特別事情のない権利濫用の場合にあたるか否か、という問題を判断することができない。しかも、この問題を判断するために、右の段階において、裁判所が被告人を呼び出しまたは検察庁、警察署等に照会するような方法により、資料を収集し事実の取調をする等の積極的活動をすることは、右の原則上、少くとも妥当ではないというべきである。けだし右の特別事情の有無という問題は犯罪事実その他の被告人に不利益な事項との関連において観察し判断することを要する問題であるからである。故に仮に右の見解に従うと、第一審第一回公判前には、資料がないために、その公判前に提出された弁護人選任届に被告人を特定するに足りる事項だけしか記載してないことが権利の濫用にあたるか否かという問題を判断することができないという不都合な結果を生ずる。起訴状一本主義の原則から考えると、被告人を特定するに足りる事項だけを記載した起訴状を提出して起訴した事件においても、権利濫用の有無というような判断の困難な問題に遭遇することなく、右の起訴状のままの状態で諸手続を進行し容易にかつ適法に第一回公判を開廷し得るように、弁護人選任届等の問題を解決するのが妥当であるように思われる。なお、右の事件においても、裁判所は、現実に審理判決の対象となつている者と起訴状記載の被告人とが人違でないことを調査する義務を有するにすぎない(刑訴規則一九六条)。被告人の氏名等が明確となることは望ましいことである。しかし、裁判所は、常に必ずみずから進んで被告人の氏名等を明確にする方法をとらなければならないわけではない(本件においては、被告人が前記のように少年法所定の少年であるかも知れないために、裁判所は、被告人の生年月日調査の必要上、結局において、被告人の氏名等を明確にしなければならないこととなつた)。次に刑訴規則第一条第二項に違反し権利を濫用してした訴訟行為の効力について審案するに、訴訟を遅延させる目的のみでする忌避の申立は権利濫用の場合にあたることが明白である。しかし、その申立は、権利濫用の事由により、無効のもの、または刑訴法第二四条第一項後段にもとづき不適法として却下すべきものと解することはできない。もつとも、右の申立は、同条項前段にもとづき却下することができる。しかし、それは、同条項前段の特別規定が存在するからにほかならない。弁護人選任届等については、右のような特別規定は存在しない。権限を濫用してする公判期日変更決定は、司法行政監督上の問題を生ずるにすぎない(刑訴法二七七条刑訴規則一八二条二項)。刑事または民事の訴訟において、訴訟の完結を遅延させる目的のみでする上訴の申立は、明らかに権利の濫用である。しかし、その申立は、権利濫用の事由により、無効のもの、または不適法として棄却もしくは却下すべきものと解することはできない。民事の訴訟において、金銭納付を命ずる制裁を加えられることがあるにすぎない(民訴法三八四条ノ二等)。なお、最高裁判所判例を調査するに、右の大法廷判決は、弁護人選任届につき、前記見解に賛意を表していないようにみえる。また昭和二九年一二月二七日第一小法廷決定(集八巻一三号二四三五頁)は、被告人の表示として、「戸塚九郎こと氏名不詳者」と記載している。この被告人は、戸塚警察署巡査に対する公務執行妨害傷害の嫌疑にて現行犯として同巡査によつて逮捕され、同警察署監房九号室に抑留されたが、終始氏名住所等を黙秘し続けた。戸塚九郎という表示は、仮名であり、結局においては、戸塚警察署監房九号室という監房番号にほかならないのである。そして右の被告人は、上告申立書を提出し、上告審において、一〇名の弁護人を選任する弁護人選任届を提出し、被告人本人の上告趣意書をも提出したが、上告審においても引き続き氏名住所等を黙秘し、右の各書類には、作成名義人たる被告人の表示として、戸塚九郎と記載したにとどまり、被告人の氏名を記載しなかした。しかし、同法廷は、右の各書類をいずれも適法有効とみた。上記の諸点から考察して、当裁判所は前記見解を採用しない。

そこで本件における上記認定の各書類を検討するに、まず名古屋拘置所においては、一八三番という番号を附されている在監者は、その在監者全員を通じて、一定の日時においては一名だけであり、同時に二名以上はいない。この事実は、当裁判所に職務上顕著である。そして第三表弁護人選任届(原審の分)、第四表弁護人選任に関する上申書、第六表弁護人選任届(原審の分)、第一一表弁護人選任届(当審の分)、第一二表弁護人選任届(当審の分)および第一三表控訴趣意書の各書類には、作成名義人たる被告人の表示として、「名古屋拘置所在監者一八三番」という趣旨の記載等があり、記録と対照して本件の被告人であることを特定するに足りる事項が記載してあるとみることとできないわけではなく、かつ指印がしてある。したがつて右の各書類は、いずれも適法有効というべきである(起訴状を基本として訴訟上のすべての手続を進行すること前記のとおりであるから、右のような各書類においても、できるだけ起訴状の被告人の表示と合致する記載をしかつ拘置所における番号等の記載をもして、被告人を特定する方法を講ずべきである。例えば、本件においては、第一二表のように記載するのが妥当であろう。なお、第一一表および第一三表は、それぞれ被告事件名欄における被告人の表示と作成名義人欄の記載とを総合することによつて、結局、作成名義人たる被告人の表示として、被告人を特定するに足りる事項の記載があるとみることができる)。しかしながら、被告人の表示として、単に「氏名不詳」または「氏名不詳者」とだけ記載したものは、被告人を特定するに足りる事項を記載したものとみることができない(氏名不詳者に対する軽犯罪法違反被告事件が二件以上係属している場合等を考慮に入れれば、なお更そのとおりであることが明らかである)。故に第九表控訴申立書および第一〇表送達受取人届は、いずれも不適法というべきである。

右のとおりであるところ、原裁判所は、第三表弁護人選任届および第六表弁護人選任届をいずれも不適法として結局において却下し、大矢弁護士一名を国選弁護人に選任して手続を進行したのである。故に原判決には、右の点において、刑訴規則第一八条第六〇条の解釈適用を誤つた違法があり、結局、訴訟手続法令の違反があることとなる。

しかしながら、本件は元来弁護人がなくても開廷することのできる事件であるけれども、原裁判所は特に大矢弁護士を国選弁護人に選任して手続を進行した。しかも、被告人の提出した第四表弁護人選任に関する上申書にもとづき、被告人の希望する桜井、大矢および森の三弁護士のうちの大矢弁護士を国選弁護人に選任したのである。そして大矢弁護士は、昭和三二年四月に名古屋弁護士会に入会した同会所属弁護士であり、学識経験が豊富であつて法廷技術に熟達しており、それらの点において、桜井、森および花田三弁護士に決して劣らない弁護士である。このことは、当裁判所に職務上顕著な事実である。しかも、記録によれば、大矢弁護士は、原審において、被告人の利益のために、諸種の多くの主張をし立証をし十二分に防禦方法を講じ弁論をしている。仮に共同弁護人として他の右三名の弁護士が関与したとしても、右の程度以上に防禦方法を講じ弁論をするには至らなかつたと思われる。なお、当裁判所においては、被告人の選任した七名もの多数の弁護人が関与して事件を進行し、事実の取調をし、左記のとおり、いわゆる破棄自判をするが、本件被告事件の実体関係については、原判決は、当裁判所の見解と趣旨を同じくするものである。叙上の諸点から考察して、原判決の前記訴訟手続法令違反が判決に影響を及ぼすことの明らかな場合にあたるとは、にわかに断定することができない。

上記のとおりであるから、右の控訴趣意は、結局において理由なきに帰する。

控訴趣意は、次に、

「原判決引用の名古屋市交通局長長谷川政雄作成名義の愛知県中警察署警視木村正に宛てた捜査関係事項照会についての回答書は、原審において検察官が提出したものであるが、刑訴法第三二三条所定の書面にあたらない。そして原審において弁護人は、右の回答書につき、その旨を申し述べて、証拠とすることに異議を申し立てた。しかるに原審は、右回答書を同条所定の書面と解して取調をしたうえ、これを証拠に供して事実認定をした。すなわち証拠能力のない書類を証拠とした。原判決には、右の点において、判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続法令の違反がある」

と主張する。

案ずるに、所論の名古屋市交通局長作成名義の回答書は、「名古屋市交通局は、何人に対しても、同局の管理する同市中区古沢町九丁目一番地先所在の熱田線B五〇号等の電柱にビラ貼附の承諾を与えたことがない」旨を記載した昭和三九年一月二七日附書面である。そして右回答書その他の原判決引用の各証拠と原判示事実等とを対照して考察すると、原判決は、右回答書その他の原判決引用の各証拠を総合して、「被告人は、名古屋市交通局長の管理する同市中区古沢町九丁目一番地先所在熱田線B五〇号電柱に、同局長の承諾を得ないで、ビラ五枚を貼附して、みだりに他人の工作物にはり札をした」という趣旨の軽犯罪法第一条第三三号に該当する事実を認定したことが明らかである。すなわち、原判決は、右回答書をもつて、被告人が電柱にビラ五枚を貼附するにつき当該電柱の管理者たる名古屋市交通局長の承諾を得なかつた事実の証拠としたのである。そしてこの場合においては、右回答書は、窃盗事件における盗難被害届等と同様な被害者の被害届と同視すべきものである。そもそも刑訴法第三二三条第三号所定の書面は、同条第一号第二号所定の書面に準ずる書面をさすと解すべきであるところ、右のような被害者の被害届と同視すべき右回答書は、同条第一号第二号所定の書面にあたらないことは、もちろん、その書面に準ずる書面にもあたらないといわなければならない。したがつて右回答書は、公文書であつて特に信用すべき状況のもとに作成されたと認むべき書面ではあるけれども、なお同法第三二三条所定の書面に該当せず、同法第三二一条第一項第三号所定の供述書に該当すると解するのが相当である。しかるところ右回答書については、記録を精査しても、同法第三二一条第一項第三号所定の「供述者が……公判準備又は公判期日において供述することができず」という事情の存在することを肯認することができない。そして記録によれば、原審において、弁護人は、右回答書につき所論のとおり異議の申立をし、被告人も弁護人も、これを証拠とすることに同意しなかつたにもかかわらず、原審は、右回答書の取調をして、これを原判決における事実認定資料に供したことが明らかである。これを要するに右回答書は証拠能力を有しないにもかかわらず、原審は、これを原判決における事実認定資料に供したのであるから、原判決には、この点において、訴訟手続法令の違反がある。そして右回答書以外の原判決引用の各証拠だけによつては、被告人が電柱にビラを貼附するにつき名古屋市交通局長の承諾を得なかつた事実を確認することができない。もつとも、屋外広告物法にもとづいて制定公布された名古屋市屋外広告物条例は、その第六条第三項において、電柱、街路燈柱およびこれらに類するものにはり紙、はり札等を表示してはならない旨を規定し、第一六条第一項において、第六条の規定に違反した者を五万円以下の罰金に処する旨を規定している。その各条項その他の右条例の諸規定によれば、名古屋市交通局長は、その管理する電柱に他人がはり札をすることを承諾する権限を有しないことが明らかである。したがつて被告人の本件はり札行為について同局長は承諾を与えていないと推定することができる。しかし、右の屋外広告物関係法令は、社会公共の利益保護を目的としているに反し、軽犯罪法第一条第三三号は、個人の財産権保護を目的としている。したがつて被告人の本件はり札行為について仮に右局長が事前に承諾を与えていたとすれば、管理者の承諾があるのであるから、右のはり札行為をもつて、名古屋市屋外広告物条例第一六条第一項第六条第三項の罪を構成するとみることができることは格別、軽犯罪法第一条第三三号の罪を構成するとみることはできない(この理は、例えば電力会社の電柱にはり札をした場合を想定すれば、一層明確となるであろう)。管理者の承諾があれば、はり札行為をもつて他人の財産権を侵害したとみることはできず、したがつて正当事由のある場合にあたるといわなければならない。右のとおりであるから、本件において、判決をもつて軽犯罪法第一条第三三号に該当する事実を認定するためには、名古屋市交通局長の承諾のなかつたことを明確にする適法な証拠を判決に掲記することを要するというべきである。結局において前記の訴訟手続法令の違反は、判決に影響を及ぼすことの明らかな場合にあたるといい得るであろう。右の控訴趣意は、理由がある。

右のとおりであつて、本件控訴は、前記の点において理由があるから、刑訴法第三九七条第一項により、原判決を破棄する。そして同法第四〇〇条但書に従い、被告事件について次のとおり判決をする。

罪となるべき事実

被告人は、他の一名の者(氏名等不詳)と共謀のうえ、昭和三九年一月二六日午前六時七分頃名古屋市の所有にかかり同市交通局長の管理する同市中区古沢町九丁目一番地先所在熱田線B五〇号電柱(同所の山一証券株式会社金山営業所前路上所在。市内電車用のコンクリート製電柱。それには、同日の以前から引き続きペンキで「禁貼紙」と掲示してある)に、同市長または同市交通局長の承諾を得ず、正当事由がないのに、「春斗で大巾賃上げをかちとり、災害事故を絶滅しよう、日本共産党」などと印刷したビラ五枚(それぞれ長さ五三センチ余、巾一八センチ余の紙)をいずれも糊を使用して裏面が全面的に密着する方法にて貼りつけ、もつてみだりに他人の工作物にはり札をしたものである。

証拠の標目≪省略≫

法令の適用

被告人の判示所為は、刑法第六〇条軽犯罪法第一条第三三号罰金等臨時措置法第二条第二項に該当するので、所定刑中拘留刑を選択し、その刑期範囲内において被告人を拘留一〇日に処する。なお、原審未決勾留につき刑法第二一条を、原審および当審訴訟費用につき刑訴法第一八一条第一項本文を適用する。

本件についての当裁判所の見解は、上記説示のとおりである。したがつて上記説示に反する趣旨の控訴趣意その他の主張は、すべて理由なしとして排斥する。すなわち、それらの所論についての結論を略記すると次のとおりである。

一、軽犯罪法第一条第三三号の規定は、憲法第二一条第一項に違反せず、憲法第三一条にも違反しない。

一、本件起訴をもつて、刑訴法第一条または刑訴規則第一条第二項に違反するとみることはできず、また軽犯罪法第四条に違反するとみることもできない。

一、本件は、刑訴法第三三九条第一項第二号または同法第三三八条第四号にもとづき公訴を棄却すべき場合にあたらない。

一、原審公判調書記載の証人小島隆および同岩田武の各供述中判示事実に副う部分は、決して所論のような偽証ではなく、いずれも十分に信用してよいものであると認める。

一、本件のように他人の工作物にその所有者または管理者の承諾を得ないではり札をする行為は、それ自体他人の財産権の侵害行為であつて、違法行為にほかならない。右のはり札をする行為は、客観的にみて、他人の工作物の美観を害する汚損行為というべきである。上記の屋外広告物関係法令もまた電柱にはり札をする行為自体をもつて美観風致を害する行為とみている。そして本件において刑法第三五条等所定の正当事由またはこれに準ずべき正当事由があつたとみることはできない。したがつて本件は、軽犯罪法第一条第三三号にいわゆる「みだりに……はり札をし」た場合にあたる。

一、この判決をもつて被告人を処罰しても、軽犯罪法第四条に違反しないと確信する。

叙上の説示に反する趣旨の所論は、すべて理由がなく、採用しない。

以上のとおりであるから、主文のとおり判決する。(裁判長裁判官影山正雄 裁判官吉田彰 村上悦雄)

<別紙省略>

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